人生のびぼー録

サッカー選手、教師を経て営業マンになった人のブログです。

It's a Wonderful World

 

「お前の代わりなんざ腐るほどいんだよ」
と神様に言われているかのような絶望感に苛まされる毎日。

 

 

スポーツ選手というものは、結果が出なければすぐに切り捨てられ、また新しい選手を獲得、話題にしてはまた結果を出せない選手を切り捨てる。

どんなにいい選手であろうと、いつかは結果が出なくなり捨てられる。いくらでも代わりのいる使い捨ての世界なのでは、とすら思う。

どれだけ苦労してこようと、どれだけ順風満帆だろうと結果がでなければ、はい、さようなら。

これはビジネスでも人生においても共通することではないだろうか。


結果、数字、利益、見た目重視の世界。


なんて残酷な世界なんだろうと思うし、そんな中で時折魅せてくるサッカーの小憎たらしさにも、結果を残せない自分にも毎日うんざり。

 

自分の代わりどころか、自分以上の人がうじゃうじゃいる。
もちろん、自分にしかできないことをしている人も、ひたすら結果を出せる人もいる。

 

 

でも今の自分はそれができていない。

自分じゃなくてもできるプレーかもしれない。
自分じゃなくてもできる仕事かもしれない。今の生き方より、もっといい生き方だってあるのかもしれない。なんて思うこともある。

 


でも大切なのはその中で必死になって、自分はこんな人間なんだって"表現しようとすること、表現しようと努力すること"、そして究極は自分が満足することだと最近は思う。

もちろん結果も追い求める。

 


こんな綺麗事を言って自分を正当化しようとしているから、結果が伴わないサッカー人生なのは百も承知。

 

 

 

それでも 

「お前の代わりなんざ腐るほどいんだよ」

と誰かに言われようが


「んたこたぁわかってんだよくそが。
でもこれが俺だってこと証明してから死んでやるよ。」

 

とか言えるようなかっちょいい男になりたいよなあ…なんて思いながらちっぽけなブログを今日も更新。

 

 

今までの自分の人生に全く後悔はないと胸を張って言えるけど、辛い日だってそりゃある(笑)

 

 

 

誰だってしんどい
集団で牛丼食べて孤独な想いを消してんだ
ほらもう少しの辛抱 あわてん坊よ焦るな

 

 

Mr.Childrenの桜井さんも「旅人」を通じてこう言っている。深い。

( ※タイトルもMr.Childrenの曲からです。)

 

 

 

追記

この「旅人」の最後にはこんな風に続く。

 

 

どうせ駄目ならやってみよう
数え切れぬ絶望を味わった夢を追う旅人 Oh…
この人生をまっとうせよ
誰のものでもないと図に乗って しくじって
そんで今日もまた神頼み

 

 

 最高にかっこいい。

 

 

たぶん、あと1ヶ月のサッカー人生になる。

最後までもがけるだけもがきます。

 

 

 

 

Tschüss!

初めて気絶というものを目の当たりにして

 

 

 

 

 

「もし明日死んだら」

「もし明日大切な人が死んだら」ということについて考えたことがあるだろうか。

これはもしかしたら考えなくてもいいことなのかもしれない。

ただ、

 

・やり残したことはないだろうか。

・誰かに伝え忘れていることはないだろうか

 

これらのようなことを今一度考え直すためには有効な手段なのかもしれないとも思う。

 

 


先日、試合の直前にチームメイトが突然倒れて気を失ったのを目の当たりにした。
幸い命に別状はなかったのだが、一瞬、全く動かなくなった彼を見て、「死」というものが頭をかすめた。

 

 

もし明日自分が死んだら。

もし明日大切な人が死んだら。

そんな恐怖を感じ、改めて毎日を悔いなく生きよう、伝えるべきことは伝えれるときに伝えようと決心した。


それに関連して以前、生きるということについて、改めて考えるきっかけになった

『27歳の女性が亡くなる前に残した、すべての人が読むべき手紙』というものを紹介したいと思う。

 

(このブログから和訳を引用)

http://www.shunya-hitomi.com/entry/2018/01/10/113310

 

 

 

ホーリーから、人生のちょっとしたアドバイス
 
 
26歳という若さで、死と向き合い始めるというのは少し珍しいことかもしれません。
なぜなら、多くの人はこのことに目を背けて生きているからです。
毎日は当たり前のように過ぎていきます、まるでそれがずっと続くかのように。
 
 
私もいつか歳を重ね、シワができ、白髪になることを想像していました。
他の多くの人がそう考えるように、たくさんの子どもに囲まれ
愛に溢れた家庭を築くことをいつも考えていました。
しかし人生は儚く、貴重で、予想できないものです。
毎日を生きることは、与えられた権利ではなく贈り物なのです。
 
 
私は27歳です。
まだこの人生を終わらせたくない。
私は自分の人生を愛していて、とても幸せなのです。
でも、もう私にはコントロールすることはできません。
 
 
私はただみんなに、些細で意味のないようなことにあまり心配しないで欲しいのです。
そして覚えておいて下さい。
最後にはみんな同じ運命が待っているということを。
なのであなたの時間を、価値のある素晴らしいと感じることに使って欲しいのです。
嫌だと思うことはしなくていいのです。
 
 
些細なことには寛大でいてください。
もちろんイライラすることはあると思いますが、引きずらないでください。
そのようなことで、周り人々の人生に悪い影響を与えないようにしてください。
イライラしてしまう時は外に出て深呼吸をして、新鮮なオーストラリアの空気を
胸いっぱいに吸い込んで下さい。
そして空の青さを、木々の緑を見てください。それらはとても美しいものです。
考えてみてください。
呼吸ができること、その素晴らしさを。
 
 
もしかしたら今日、渋滞につかまってしまったかもしれませんね。
あなたの愛おしい赤ちゃんが泣きわめくせいで、よく眠れなかったかもしれません。
美容師があなたの髪を短く切りすぎたかもしれないし
変えたばかりのネイルが欠けていたかもしれません。
自分の容姿が気に入らない人もいるかもしれません。
 
 
しかしそれらのことは些細なことです。
あなたが人生の終わりを迎える時、そんなことは考えないと断言できます。
人生全体で見れば、これらのことは本当にどうでもいいことです。
私の身体は日を追うごとに、どんどん痩せ細っていきますが
私の願いは、もう一度だけ家族と誕生日を過ごしたい
もう一度だけクリスマスを迎えたい
もう一度だけパートナーと過ごしたい
それだけです。
たったもう一度だけでいいから。
 
 
仕事がどれだけ大変だったか、エクササイズがどれだけハードだったかなどの
不満を訴える人がいますが、まずは身体が満足に動くことに感謝してください。
たとえ理想の体型でなかったとしても、健康でいられること
身体が機能すること、それだけで素晴らしいことなのです。
食べ過ぎに注意して、適度に運動をし、新鮮な食事で十分な栄養を与えてください。
 
 
そして、お互いを助け合いましょう。
 
 
与えて、与えて、与えるのです。
他者に与えることで得られる幸せは、この上ないものです。
私ももっとそれをしたかった。
病気になってから、多くの人が私をサポートしてくれました。
とても返しきれるものではありません。
そのことを私は一生忘れないでしょう。
 
 
あなたが死ぬときにお金を持っていてもなんの意味もありません。
自分の服を買う代わりに、誰かのためにそのお金を使いましょう。
あなたが同じ服を着ていても、誰も気にしません。
何より大切な人を食事に連れていったり、贈り物をすることは気持ちの良いことです。
その際に、大切に想っているという気持ちを伝えましょう。
 
 
自分のためにお金を使う際は、モノではなく経験に使いましょう。
ビーチに行って足を水につけ、つま先で砂を掘り、顔を海水につけてください。
自然を感じてください。
携帯の画面ばかり見るのではなく、ただその瞬間を楽しむようにしてください。
人生とは画面を通して生きることではないし、完璧な写真を撮ることでもありません。
大切な人との血の通う時間を大切にしてください。
 
 
早起きをして、鳥のさえずりに耳をすまし、朝日の美しい色を眺めるのです。
 
音楽を聴いてください。音楽はセラピーです。
 
犬を抱きしめてください。
 
携帯を置いて、友達と話をしましょう。
 
旅をしたいならしましょう。
 
生きるために働いてください、働くために生きてはいけません。
 
心が幸せに感じることをしてください。
 
ケーキだって食べていいのです。何の罪悪感もありません。
 
やりたくないことには、やりたくないと言いましょう。
 
他の人が考える理想の人生にプレッシャーを感じなくても大丈夫です。
 
平凡な人生を望んでも全く構いません。
 
愛する人に、毎日愛を込めて、愛していると伝えましょう。
 
 
そして覚えていてください。
もし何かが、あなたを惨めな気持ちにさせているなら
ーそれが仕事や恋愛など何であれ
あなたにはそれを変える力があります。
変える勇気をもって下さい。
この地球であとどれくらい生きられるか分からないのだから
そのようなことで時間を無駄にしてはいけません。
多くの人が同じことを言っていますが、これ以上の真実はないと思います。
 
 
とにかく、これは一人の若い女性からの人生のアドバイスです。
覚えていてくれても、忘れても、私は構いません。
 
 
あと最後に一つだけ、もし可能なら定期的に献血をしてください。
見過ごされがちだけど、一回の献血で3人の命が救えるのです。
これはすべての人が持つとても偉大な力です。
献血のおかげで、私は一年間も長く生きることができました。
大切な人たちと過ごすことができたこの一年間を、私は一生忘れません。
それは、私の人生で最も素晴らしい一年でした。
 
 
それでは、また会う日まで。
 
 
ホーリー

 

 

どう感じただろうか?

 

 

 

以前、勇気を与えられる選手になりたいと言ったことがあるのだが、最近は勇気を与えられる人間でありたい、と常々思う。

生きる勇気、挑戦する勇気、変わる勇気…

この手紙にも勇気をもらった。


自分は今まで何度も挫折や失敗を経験してきたが、その度にいろいろな人や言葉に助けられてきた。

助けてくれる人やアウトプットしてくれる人がいるから、転んでも起き上がれた。

 

死にたいと思うことも何度もあったし、いつ死んでもいいやとすら思っていた。


でも今は生きていたい理由がある。


誰かの生きる理由になりたいなんて、おこがましいことは言えないけれど、誰かに勇気を与えられる人間になれたら…そんな淡い期待ぐらいは抱いていてもいいのかな。

 

そのためにも今日も自分にできることをする。

 

 

もし明日死んだらどうする?

もし明日大切な人が死んだらどうする?

 

 

後悔する前にやりたいことをやりませんか?

後悔する前に感謝や愛を伝えてみませんか?

 

 

恥ずかしくない、後悔する前に。

 

 

Tschüss!

類は友を呼ぶ

 

高校生に「結婚生活」についての授業をしろと言われたらあなたならどうするだろうか?

 


以前、教育実習に行ったときに「結婚生活」についての保健の授業を担当したことがあった。大学生だった僕はもちろん結婚生活について何も知らない。


はて、何を教えればいいんだろうか。困った僕はまず教科書を見てみることにした。

 

そこにはデカデカと太字でこう書いてあった。
よりよい結婚生活を送るためには、
パートナーとよりよい関係を築くことが大切です。」と。

お〜、なるほど〜。…とはならない(笑)

 

 

こんな当たり前のことを授業にしたら、何も生徒のためにならないと思った僕は結婚のことについて調べてみることにした。

 

 

調べていく中で発見したのが、
3組に1組が離婚しているという事実。
(あくまで少し大げさに言うと)

 

さらに離婚の原因第1位は性格の不一致によるものだということもわかった。

 

 

 

教科書では、

パートナーとよりよい関係を築け。 


でも現実は結局、

そもそもの性格が合わずに離婚…。

 

 

もちろんいろいろな背景はあるだろうが、僕は矛盾している気がしてならなかった。

 

 

 

そこで僕が出した結論は、よりよい結婚生活を送るためにはよりよいパートナーを見つけることの方が大切なのではないかという仮説。

 

あくまで僕個人的な意見なので根本が違うではないかという意見はここでは受け付けない(笑)

 

 

では、よりよいパートナーを見つけるためにはどうしたらいいんだろう…。


再び困った僕が見つけたのは「恋愛均衡説」

 

多くのパートナーは魅力が大体同じぐらいの人と結ばれるという、という内容。

 

大体というところが大雑把なうえに、何をもってして魅力的だと思うかは人それぞれだと思うが、そこがまた深い。

 

 

もし、あなたがかっこよくてお金持ちで優しい人と結婚したいと思うのなら

あなたは、かっこよくてお金持ちで優しい人が魅力的だと思う"何か"を持っていなければならない。

という自分なりの解釈。

 

 


この恋愛均衡説に妙に既視感を覚え、記憶を辿ると似たようなことわざを思い出した。


…「類は友を呼ぶ」

 

この言葉を思い出して、恋愛均衡説というのは恋人やパートナーに限った話ではないと思った。


同じ高校や大学には大体同じぐらいの学力の人が集まるように、サッカー部にはサッカーが好きでサッカーをしたい人が集まるし、本屋には本を読みたい人がそれぞれ集まる。

 


同じように、不満ばかり言う人には不満ばかり言う人が集まってくるだろう。逆もしかり。


だから、今いる場所や環境の何かが違うと思ったら、

環境、もしくは自分を変える必要があるのだ。

 

不満ばかり言うような集団を避け、夢や希望をもった前向きな集団に飛び込み続ければ、気づいた頃には自分もそうなっているだろう。

 

もしくは自分が夢や希望をもって前向きでいれば、同じような人が自然と集まってくるはずだ。

 

 

試合後のインタビューなどでこう答えるスポーツ選手を見たことがあるのではないだろうか。


「僕は周りの人に恵まれていただけです」


でもそれはきっと、周りの人に恵まれる所以がその人にあるからだ。

 

 

こんな前置きがあったら誤解を招きそうだが、僕は自分1人じゃ何もできないことを先に言っておいたうえで、胸を張ってこう言いたい。

 

 

僕は周りの人に本当に恵まれている。

 

 

 

周りに原因を求めるのではなく、常に自分にベクトルを向けられれば、この先も素敵な人生が続いていくのだと思う。

 

 

いつまでも周りの人に恵まれる人生でありたい。

「類は友を呼ぶ」を信じて。

 

 

Tschüss !

 

正義は勝つ

 

少し長いので、最後の引用部分だけでも読んでもらえないだろうか。

きっと、きっと何かが変わると思う。

あわよくば最初から全部読んでいただけたらこの上ない幸せです…。

 

 

 

 

外に出たら、やけに町が静かなことで今日がドイツの祝日であることに気づいた。

 


用事があって気づいたら昼過ぎになっていたので、東京でいう新宿(新宿感はまるでないが、賑わっているという意味で)のような中心街にパンを買いに行った。

 

 

いつもは賑わっている中心街も祝日ということで一部の飲食店を除いて、どこのお店も全く営業していなかった。

 


それでも町にちらほら人が歩いている。

 

あれ?どこもお店はやっていないのに、この人たちは何をしているんだろうと少し観察していると、特に何もしていないことがわかった。

 

何もしていないというと語弊があるが、家族や友人とただ散歩を楽しむ人、噴水の前でただぼーっとしている人、カフェのテラス席で会話を楽しむ人、教会からお祈りを終えて出てくる人。

普段はとても賑やかな中心街なのに、聞こえてくるのは散歩をしている人たちの足音、会話を楽しむ人たちの声、鳥のさえずり。教会の鐘の音。
大げさではなく、本当にそれ以外の音は一切何もしない。なんていうか、日本の都会でよくあるガヤガヤ感がまるでない。
そこにいる人たちみんなが、生きていることを謳歌しているようで、人間が本来あるべき姿なのかなと感じたし、それがとても素敵な姿に見えた。大切な人とあてもなく散歩をしたり、他愛のない会話を楽しんだり、綺麗な景色を見てぼーっとする。最後にそんなことをしたのはいつだろう?

 


そしてもう一つ驚いたのが、その中でスマートフォンをいじっている人がほぼ全くといっていいほどいなかったということ。
散歩している人もぼーっとしている人も会話を楽しんでいる人も。
それは当たり前であるべきことなのだと思うけど、最近の日本はどうだろうか。町に出ると、スマホ歩き、電車の中でもスマホ、食事やカフェの席でもスマホ。旅行に行っても、まずインスタ映え


大切な人と同じ時間を過ごす、美味しい食事を楽しむ、会話を楽しむ、いろんなことを見たり聞いたり感じることを楽しむ。スマホによって本末転倒な現実がある。

そんな自分もこの文章をスマホで打っているし、時代の恩恵を受けまくっているので偉そうなことも言えないのだが(汗)

 


…話を戻して、何も予定のない時間を楽しんでいるドイツ人を見て、素敵だなあと思うと同時にこの気持ちを共有できる大切な人が"いま隣に"いてくれたらもっと幸せだろうなと感じた。

それに関連して先日、東南アジアに1ヶ月の旅をしに行っていた友人とも幸せについて話をした。人は1人ではなかなか幸せを感じることができないよね、と。

 

幸せというものは、

"誰かと"何かをすること

"誰かへ"何かを与えること

"誰かに"何かを与えてもらうこと
…こういったことを通して、初めて幸せを感じることができるのではないかと思う。

また、僕の大切な人もどこに行くかが大切なんじゃない、"誰と"行くかが大切なんだと話してくれた。全くその通りだと思う。

 

ただ、中には人とのコミュニケーションや関わりが苦手な人、1人が好きだと言う人もいる。

 

でも人は1人では生きられないことは確かだ。
僕たちは何千年も前から脈々と紡がれてきた命の中に生きているし、誰かに育ててもらった過去が必ずあるし、今だって誰かが作った家で暮らし、誰かが作って運んでくれたものを食べ、誰かが生み出した娯楽を楽しんで生きている。

僕たちはそんな社会の中で生きているし、僕たちは誰かに生かされているのだということをなぜか今日、ふと感じた。

 

誰かが言う社会貢献がしたいだなんて、偽善だと思っていたけど、そんなことを考えていた自分が1番馬鹿だったと気付けた。

 

僕らはそうやってみんなが育んできた社会の中で生きていて、みんなが作ったものを食べたり使ったりして生きている。
要するに僕たちは生かされている。

生かしてもらっているのだから、僕らも社会のためにできることをすべきだ。
もらったものを返さないのは泥棒と一緒だ。

困っている人を助けに地球の裏側まで行けということではないけれど、(もちろん余っている力があれば行くべきだし実際に行動している人には頭が上がらない)、自分の手の届く範囲で助けるべき人は助けるべきだし、人に優しくすることも当たり前だと思う。それが世界をよりよくするためにできる小さな一歩。

自分の利益ばかり、自分の欲望ばかりを優先させているような人はどこかで歪みが生じるし、必ずいつかバレて痛い目に合う。お天道様は見てるっていうのは本当だと思う。

 

正直者が馬鹿を見るなんて言葉もあるけれど、馬鹿じゃない正直者ぐらいは救われる世の中であってほしいと思う今日この頃。


この先ずっと、正義が勝つ、愛が勝つ世の中でありますように。

 

 

僕は文章が上手くないので、最後に親友に教えてもらった詩を載せて、誰かのために、そしてあわよくば何かしらの形で社会貢献になれ〜と願って今日は終わりにしようと思う。思いっきり人の言葉だけど(笑)

 

長いけれどぜひご一読を。

きっと何かが変わる。

 

 

ビルは空高くなったが
人の気は短くなり

高速道路は広くなったが 
視野は狭くなり

お金を使ってはいるが 
得る物は少なく

たくさん物を買っているが 
楽しみは少なくなっている

家は大きくなったが 
家庭は小さくなり

より便利になったが 
時間は前よりもない

たくさんの学位を持っても 
センスはなく

知識は増えたが 
決断することは少ない

専門家は大勢いるが 
問題は増えている

薬も増えたが 
健康状態は悪くなっている

飲み過ぎ吸い過ぎ浪費し 
笑うことは少なく
猛スピードで運転し 
すぐ怒り
夜更かしをしすぎて 
起きたときは疲れすぎている

読むことは稀で 
テレビは長く見るが 
祈ることはとても稀である

持ち物は増えているが 
自分の価値は下がっている

喋りすぎるが 
愛することは稀であるどころか憎むことが多すぎる

生計のたてかたは学んだが 
人生を学んではいない

長生きするようになったが 
長らく今を生きていない

月まで行き来できるのに 
近所同士の争いは絶えない

世界は支配したが 
内世界はどうなのか

前より大きい規模のことはなしえたが 
より良いことはなしえていない

空気を浄化し 
魂を汚し
原子核を分裂させられるが 
偏見は取り去ることができない

急ぐことは学んだが 
待つことは覚えず

計画は増えたが 
成し遂げられていない

たくさん書いているが 
学びはせず
情報を手に入れ 
多くのコンピューターを用意しているのに
コミュニケーションはどんどん減っている

ファーストフードで消化は遅く
体は大きいが 
人格は小さく
利益に没頭し 
人間関係は軽薄になっている

世界平和の時代と言われるのに
家族の争いはたえず

レジャーは増えても 
楽しみは少なく
たくさんの食べ物に恵まれても
栄養は少ない

夫婦でかせいでも 
離婚も増え
家は良くなったが 
家庭は壊れている

忘れないでほしい 
愛するものと過ごす時間を
それは永遠には続かないのだ

忘れないでほしい 
すぐそばにいる人を抱きしめることを
あなたが与えることができるこの唯一の宝物には 
1円たりともかからない

忘れないでほしい
あなたのパートナーや愛する者に
「愛している」と言うことを
心を込めて

あなたの心からのキスと抱擁は
傷をいやしてくれるだろう

忘れないでほしい
もう逢えないかもしれない人の手を握り 
その時間を慈しむことを

愛し 
話し 
あなたの心の中にある
かけがえのない思いを
分かち合おう

人生はどれだけ
呼吸をし続けるかで
決まるのではない

どれだけ
心のふるえる瞬間があるかだ

ジョージ・カーリン

 

引用元:

http://yonksy.hatenablog.com/entry/2017/12/05/210335

https://feely.jp/9763/

 

 

家族、恋人、友達、誰だっていい。新たな出会いももちろん大切。しかし、もう一度いまあるものを見直してみる機会を設けてみよう。

 

僕の大切な人の明日がいい日でありますように。

全ての人の明日が素敵でありますように。

 

Tschüss!

 

 

思い描いていたもの

 

 

僕がサッカーで1番好きな瞬間は、

試合に出て、勝利の喜びをみんなで分かち合うことだ。

それを文化も言葉も違う人たちの中でできたら、どれだけ嬉しいのだろう。それが、僕がドイツに来る前に思い描いていたもの。

 

 

限りなく近いものを経験できた。

 

 

 

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正直、毎日毎日帰りたかった。言葉も話せない、周りは上手い選手ばかり。好きでやってるサッカーなのに、自分が来たくてドイツに来たのに、サッカーも私生活も何も楽しめない。なんでこんな苦しい思いをしてサッカーをしているんだろうとすら思った。

 

でも耐えた。最低限自分にできることをして、そして長い嵐の先にあるものを信じてひたすら耐えた。

 

自分が思い描いていたものは、想像以上に最高だった。あぁ、サッカーやっててよかった、今日ぐらいは自分を褒めてあげようと思えた。

 

 

嵐は来る。誰にでも来る。必ず来る。

でも大切なのは、悪いときに何ができるか。

 

 

嵐を越えられる術を持っている人、嵐を乗り越えた経験のある人は強い。

 

 

サッカーも人生も調子がいいときは、何も考えなくても上手くいく。でも悪いときにどんな行動をとるかで、その人の真価が問われる。

 

 

 

上手くいかないときあなたならどうしますか?

 

 

 

耐える?試行錯誤する?環境を変える?

はたまた、逃げる?諦める?人のせいにする?

 

 

調子がいいとき、上手くいかないとき。

どんなときだって後悔しない選択ができる人間でい続けたい。

 

 

 

Tschüss!

小さな町の小さなイベントに参加して

 


ヒトは自分が幸せになるほど、周囲との比較に感心を持たなくなる。他人と比較しなくても幸せを感じることができるし、自分の人生に満足し、それに熱中しているから、他人の人生が気にならなくなるのだ。他人と比べることなく、自分の人生を生きることが本当の幸せなのだ。

                                        ーーー メンタリスト DaiGo

 

 

今日は最近心を打たれたこの言葉に関連して感じたことについて。

 

 

先日、僕の所属するチームのあるHerne市で、昨年1年間でスポーツ分野で功績を残した市内の個人、団体を表彰する式典があった。去年はチームにほとんど関わっていないため、あまり関係がないのだが参加させてもらうことができた。


小さな町とはいえ、200〜300人は入るであろうホールで選手やファン、関係者などが小綺麗な格好をして食事やお酒を嗜みつつ、種目ごとの個人、団体の表彰があり、合間合間にはちょっとしたショーなどもあった。もちろんアジア人は僕だけ。



恐らく普通の日本人なら誰も知らない、むしろ世界中のほとんどの人が知らないであろう、ドイツのHerneという地域。そしてその表彰式。


誰にも知られないけれど、彼らは自分の好きなスポーツをするし、人知れず、こうして互いの功績や健闘を讃え合う会を催したり、その会でダンスやショーを懸命に披露する人たちがそこにはいた。


誰に知られなくてもやる。
…それは、彼らがそうしたいから。

自分らしく自分の人生を楽しみたいから。

 


もちろん、僕も同じ。誰に知られなくても毎日を生きるし、こうしてサッカーをするし、誰かに何かが伝わればと思ってアウトプットだってしてみる。




小さな町の小さなイベントを目の当たりにして、同じようにきっと世界中僕の知らないいろんなところで、誰に知られるでもなく、自分だけの人生を歩んだり、楽しんでいる人たちがたくさんいるんだろうなあと感じた。
当たり前のことだけれど世界は広いなあ、とつくづく。

 


自分さえよければ、ということでは絶対にないけれど、"自分が"幸せだと感じること、自分の人生を生きることは大切なんだなと改めて感じた。

 

 

 

自分は自分の人生を歩めているだろうか。
そもそも自分の人生とは何だろうか。

 

 

自分なりの答えとしては

自分の人生を生きる、ということは

後悔しないように生きること

…なのではないかと僕は思う。

 

 

やらないと後悔しそうなことをやろう。

もちろん、やったら後悔しそうなことはやらないでおこう。

自分もこれからも後悔のない人生を送り続けられるように、今日も精一杯生きようと思う。

 

Tschüss!

信じるということについて

 

現在4節が終わり、1勝1敗2分。
個人的には1試合目から
途中出場→途中出場→出場無し→先発出場(←New!)
少しずつではあるが、前進している。


先日の2節目の試合後、監督に「今日はどうだった?」と聞かれた。

「満足できるプレーができなかった。もっともっとやらなきゃいけない」という旨をカタコトのドイツ語で伝えると、
「お前はもっと冷静にならなければならない。お前は素晴らしい選手なんだ。俺はお前を信じているんだからな」と言ってもらえた。

 

 

監督にお前を信じていると言われることなんて、サッカー人生で一度もなかったからその日はすごく自信になった。

 

 

しかし数週間経ち、また納得のいかないプレーの日々が続いた。なぜ上手くいかないのかたくさん悩んだ。悩んだ挙句、監督に相談してみた。

「僕はあなたが言うようにもっと冷静になりたい。そしてもっといい選手になりたい。どうしたら僕はもっといい選手になれる?」と。

 

すると監督室に呼び出され、得意ではない英語を一生懸命使いながらこう言われた。

 


「ヨシ、お前は俺のことを信じていないのか?この間も言っただろ?お前は素晴らしい選手だって。通常であれば、お前は90分間試合に出るべき選手。プレシーズンのパフォーマンスが素晴らしかったからだ。
そのときのパフォーマンスが90%だとしたら今のパフォーマンスは75%だ。でもそれは普通のこと。なぜなら公式戦は特別だからだ。我々は勝たなければならないし、プレシーズンとは緊張感も違う。ましてや、ヨシは文化も言葉も食事も天気さえ違う国に来ているんだ。最初から上手くいかなくて当然だよ。そのことでお前が戸惑いを感じてることも俺たちは理解している。でもこれはプロセスなんだ、最初の途中出場で70%、次の試合で75%、その次で80%…。物事にはプロセスが必要なんだ。だから絶対にネガティブに考えたり、シリアスになってはいけないよ。俺はお前を信じているんだ。俺のことを信じてくれるか?」

 

信じるということがどういうことなのか、少しわかった気がした。


今まで築いてきた関係から、うわべの言葉ではないことがわかったし、監督が信じてくれるから自分も監督を信じよう、そして自分のことも信じようと思えたし、この監督のためにチームに貢献したいとも思えた。

 


決して無差別に無条件に信じることがいいとは思わない。ある程度の基盤は確かに必要。それでも信じることから信頼関係が生まれるし、信じることで自信を与えることもできる。

 

そして自分を疑うことは、自分を信じてくれる人を疑うことと同じだということも学んだ。

 

サッカーに限らず、強固な信頼関係を持てる人生はより豊かなものになるはずだ。

またサッカーを通じて、人生で大切なことを学べた。

 


シーズン終了まであと2ヶ月半。
残りの時間で何を残せるのか、何を収穫できるのか。後悔しないようにやりきろう。

 

 

Tschüss 

 

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