人の死を見て、自分の生を見直す
─そういう考え方がなぜ震災をきっかけとしてガラッと変わったのですか?
一番大きかったのは死生観が変わったことです。それまでは年齢的にも自分が死ぬとか身の回りの友人が死ぬということに関してはほとんど実感がもてなかったのですが、震災では多くの友人・知人が亡くなりました。それを目の当たりにしたことで、人間はやっぱり死ぬんだと改めて実感したんです。同時に、なぜ僕は生き残ったのかなとか、生き残ったのならば死ぬまでどう生きるべきなのかなとか、何のために生きるのかなとか、そういうことを考えるようになって。
(中略)
このことで「死」というものを強烈に意識したんです。ただ、死ぬこと自体に対する恐怖というよりも、「死」を前向きに捉え始めたというか、いつか終わりは来るならその時をどういうふうにして迎えるかが大事だなと。終わりの迎え方を考えながら日々生きていけば間違いはないような気がしたんですよね。つまり、死ぬ瞬間に後悔しない生き方をしたいと痛切に思ったということです。そう考える中で、死んでもおかしくなかった状況の中で運良く生き残ったからには、何か人のためになるようなことをしなきゃいけないなと思ったわけです。
(パプアニューギニア海産、武藤北斗工場長インタビュー記事より。https://next.rikunabi.com/journal/2018710_c01/)
東日本大震災然り、今回の西日本豪雨災害然り、多くの人が亡くなっている。人の死を見て、自分の生について考え直すことは不謹慎と言われるかもしれない。しかし、人間である以上、早かれ遅かれ誰にでも「死」は訪れることも事実。
僕もこのパプアニューギニア海産の工場長のように「死ぬ瞬間に後悔しない生き方をしたい」と痛切に思う。
あぁ、楽しかった。と言って死んでいけたらそれは幸せなことだ。そのために毎日をどう生きるか。
被災者のご冥福をお祈りします。
この先どうなってもいいのならば
最近やっとこさ減ってはきたが、まだまだ、いや一生終わることのないであろう、不倫報道。そしてそれを助長するかのようなドラマや報道。
とても許されるものではないが、やりたきゃやればいい、と今は思う。
もちろんその言葉の後には、「この先どうなってもいいのなら」と続く。
僕が思う"家族"や"結婚"について、端的かつ正確に表現していると思えるようなものを見つけたので紹介したい。
家族や配偶者への接し方について、改めて考えてもらえるきっかけにでもなれば、それほど嬉しいことはない。
モリー先生との火曜日 - Tuesdays with Morrie【講談社英語文庫】
- 作者: ミッチ・アルボム,Mitch Albom
- 出版社/メーカー: 講談社インターナショナル
- 発売日: 2005/07/07
- メディア: 文庫
- 購入: 5人 クリック: 13回
- この商品を含むブログ (11件) を見る
「…たしかに友だちっていうものはすばらしいものだ。だけどね、咳こんで眠れないとき、誰かが夜中じゅうそばにいて、慰め、助けてくれなければならないとき、友だちはその場にいないんだよ」
ドイツから帰ってくる直前に買ったポストカード。大切な人を大切にすることは、人生を豊かにする。と、僕は思う。
家族愛よ永遠に。
Tschüss!
アウトプットのすゝめ
アウトプットとインプットには深い相関性があることに気づいたが、なぜそう思うかの説明は上手くできそうにない。
頭がいい人のように論理的でわかりやすい例えで説明をすることができないから、代わりに友達の話をしようと思う。
僕には心から尊敬している友達が2人いる。
1人は目標達成のために誰よりも貪欲に突き進む友達。もう1人は幸せについてたくさん考える友達。
彼らとは定期的に連絡をとる。
目標達成のために貪欲な彼とは、お互いのやりたいことやそれを叶えるための話などを。
幸せを追求している彼とは、幸せについての話をよくする。
そんな話を定期的にするものだから、普段生活している中でも、
「あ、これ次連絡するときに話そう」とか、
「これはいい話のネタになるな」…なんて思うことがしばしば。
こんな風に定期的なインアウトプットの機会があるから、普段生活している中でも彼らへの話のネタのために情報が入ってきやすいし、日頃のインプットがあるからアウトプットだってできる。
何をインプットするか、何をアウトプットするかを繰り返しているうちに「自分」というものが形成されてきた気がする。
だからこれからも尊敬できる彼らとつながり続けていきたいし、ブログもできる限り続けていこうと思っている。
そしてそれらには相関性があり、どちらかだけでは不十分。どちらも併用していくことで知識をより深められていくのではないか、ということ。
また、そうしたインプットやアウトプットを繰り返していくうちに、段々と思考も変わっていき、さらにそのことに関する情報やアイディアが入ってきやすくなる。
だから逆に、この一種の法則のようなものを使って、自分が掴みたいものに近づいていくこと、すなわち引き寄せたいものを"引き寄せる"ことができるのではないかとすら思う。
どんな本を読むか、誰と話すか、どんな言葉を使うか、どんなことを考えるか…
これからも幸せを引き寄せるインプット、アウトプットを続けていきたいものだ。
相変わらず言葉足らずなブログとなってしまったので、得意の引用で締めようと思う…
忘れてはいけない。幸せはあなたが何者であるか、あるいは、何を持っているかによって決まるのではない。何を考えるかによって決まるのだ。
デールカーネギー
「類は友を呼ぶ」とあなたがたが言うのは、実は「引き寄せの法則」のこと。朝起きたときに気分がよくないと一日中ろくなことが起こらず、ついには「ああ、ベッドから起き上がらなきゃよかった」と愚痴を言ってしまうとき、この法則が真実と気づくだろう。また年中病気のことばかり話してる人が病気になり、年中繁栄のことばかり話してる人が繁栄するときこの法則が真実と気づくだろう。あなたが630キロヘルツのAM放送を聞こうとして、ラジオを630キロヘルツに合わせるのも「引き寄せの法則」が真実だからだ。周波数を合わせるのは電波塔から送信される周波数と受信する周波数が一致するということを知っているからだ。
「 引き寄せの法則〜エイブラハムとの対話〜」より
Tschüss!
エビチリ
僕は 〇〇 には自信があります。
こう胸を張って誇れるものをもっている人はこの世の中に何人いるのだろうか。
今日行った中華料理屋の話。
メニューにはこんな文言。
「自信あります。たけしのエビチリ」
思わず注文したが、納得の味。
きっとこの人は自分の仕事に誇りを持って生きているのだろうと思った。
かっこよく生きることだけがいいとは思わないが、誇りをもって生きること、誇れる仕事があることは男としてやはり憧れるものがある。
いつか自分もそんな誇れるものを、自信がありますと胸を張って言えるものを一つでも持っているような男になりたいものだ。
ドイツなんてもう二度と行かない
比較的勤勉な国民性と聞いていたが、
時間は守らない、口約束は無いも同然、融通も利かない。
子供にはお金をスられるし、ご飯も全く美味しくない。
用意された家は真冬に暖房の効かない牢獄みたいな部屋。
基本的には毎日家と練習場の往復。
家ではひたすら暇を持て余し、練習に行けば当然日本人は1人だし、ドイツ語もほぼ話せないから談笑には加われない。
日本に帰りたいと本気で毎日思っていたし、
サッカー選手としての自信も全て失って帰ってきた。
だけど、自分の人生において大切なことは学ぶことができた。
チームメイトのキャプテンに君の夢は何?と聞いてから、自分の中で何かが変わった気がした。彼はドイツ語があまりわからない僕にも分かりやすいように教えてくれた。ドイツ語だとうろ覚えだけどこんな感じ。
"immer gesund"
"zeit mit familie"
"normale arbeit zu haben"
健康でい続けること
家族との時間を大切にすること
普通の仕事があること
そんな当たり前のこと?と思われるかもしれないけど、意外とこんな当たり前なことが大切だってことに気づける機会はなかなかないと思う。
そして気付けていても大切にできない人だってたくさんいると思う。
ドイツに行って自分にはサッカー選手として人に夢を与えられないことがわかった。
でも僕は僕自身がこれから幸せに生きていけることがわかったし、きっと家族も幸せにできるってことがわかった。
だからこそ思う。
サッカーをやっていて本当に良かった。
ドイツに行って本当に良かった。
でもドイツなんてもう二度と行かない。
あと、僕、結婚しました。
これからの仕事は未定(サッカー以外のことに挑戦したい)、生活拠点はしばらくは八戸。
ブログはこれからもちょくちょく書いていくつもりです。
今後ともよろしくお願いします。
Tschüss!
JFLでも試合に出れなかった僕が渡独したらドルトムントと試合できた話
表題の通り、昨日はドルトムントと試合をするチャンスが巡ってきた。
いわゆる親善試合なのだが、あのドルトムント との試合。貴重な経験であることには変わりない。
言わずもがな、ドルトムントはドイツの1、2を争うビッククラブ。
対する僕は昨年所属したJFL(日本4部リーグ相当)ですら試合に出れず、現在はドイツ5部リーグ所属。
日本から出てみないことには絶対に実現しなかっだろう。行動はしてみるものだと改めて思う。
代表選手は不在なうえに自分自身は30分程度のみの出場だったが、とても貴重な経験ができたとは思う。サッカー選手に疎いけど、CKのマークのシュメルツァーぐらいはわかった。
45分のみのチャリティマッチで内容も完全に支配されていたが結果はなぜか1-0。
まぁこのへんも感じたことも伝えたいことも山ほどあるが、今日の本題は違う。
世界は広いと思ったことだけは言っておく。
貴重な時間を過ごせたが、この時間がずっと続けばいいなんてことは全く思わなかったのも事実。
いい経験であり、伝えたいこともあったからこそこうして文字にしたが、こんなことを自慢にするような人生にだけはしたくない。
事実、今月いっぱいでサッカーにも区切りをつけるつもりだ。
世界のトッププレイヤーとプレーしても楽しめなかったからサッカーをやめるのか、サッカーをやめると決めたから楽しめなかったのかはわからない。
初めて自分の試合で発煙筒というのものを見て、あまりの煙の量に試合が中断になったときはワクワクが止まらなかったのに…
今となってはサッカーをしたいと思えないところまで来てしまった。よくも下手っぴがここまで楽しませてもらったと思う。
ただこんな風に思った。
僕は彼らのようにサッカーで何億も稼ぐ選手にはなれないけれど、彼らも僕にはなれない。
彼らは僕になりたいとは微塵も思わないだろうが、僕も彼らのようになりたいと微塵も思わない。
この世の誰も僕のようになりたい人などいないだろうが、僕もこの世の誰にでもなれるとしても僕以外の誰にもなりたくない。
これからもそんな人生を歩んでいければいいと思う。
ドイツ生活も残り数日。
ちょくちょく楽しんでいるように思われているが、実は毎日早く帰りたいと思っている。
ドイツ人がこっそりこいた屁の香る夜行バスの中から tschüss! (猛烈に臭い)
音がするかのように
前回の投稿は
自分の代わりどころか、自分以上の実力のある人で溢れかえるようなこの世界の中で(スポーツの世界にしろビジネスの世界にしろ)
大切なのは、自分はこんな人間なんだと表現しようとすること、表現しようと努力すること、そして自分が満足することなのではないかという内容だった。
自分で書いておきながら表現に少し物足りなさを感じていた。
そんなときにある友人との電話の中でこれだ!と思わずにはいられないことがあったので、ぜひ紹介させてもらいたい。
彼にはこんな話を聞かせてもらった。
南米のある国のタクシー運転手のお話。
その国には、車内で自分の好きな音楽しか流さないタクシーの運転手がいる。
この音楽のよさが分からないやつは乗ってくるなと言わんばかりの態度どころか、実際に曲を変えてくれだとか、よさがわからないと言うお客さんは乗車拒否をしてしまうのだとか。
シンプルにクセがすごい(笑)
日本でそんな運転手がいたら、きっと仕事にならないだろう。
ただ驚くべきは、それでもそんな音楽が、そんな個性的な運転手が好きなお客さんが常連として"結局彼の元に集まってくる"ということだ。
友人が以前見たブログの記憶を辿りながら話してくれたものなのだが、元の話より彼のうろ覚えが故のアレンジの加わった話の方が面白かったので、あえてそちらを。
さらにその元のブログには、このタクシーの話や最近自分が感じていたことを端的かつ正確に言語化されているものまであり、その筆者のセンスとそれを引き寄せた友人のアンテナに感嘆させられた。
人生は自分だけのものだから、
たくさんの人に理解されなくてもいいんです。
家族や大切な人だけがわかってくれればいい。
実際に音がするぐらいストン、と腑に落ちた。
まさに自分が求めていた言葉だった。
たとえ1万人のサポーターがいようが
たった1人の愛する人には勝てないわけで…。
(あくまで個人的な見解だが)
だからこそ
そんな大切な人を大切にし続けていきたいし、大切な人に大切にし続けてもらえるような自分であり続けたい。
それが人生を豊かにする秘訣の一つなんじゃないかな、と僕は思う。
ではまた。
Tschüss!